🗺️Wonder Journey 【 保育者の弱体化 】
今回は、角幡唯介さんと永野さんの対談を受けて、そのお話を保育者×猟師の視点から振り返ってみようと思います。耳勉強として振り返りをがっつりと綴るのは初めてですが、お付き合いいただければ幸いです。

Wisdom Log ▶️5年後の世界 【 人間の弱体化 】
・保育士を辞めた理由
少しばかりハードなタイトルになりましたが、、悪意はないことをわかって頂けたらと思います。
私は保育者ですが、数年前に正規職を退職し、今は非常勤として働いています。
理由は、正規でいた自分が
“自分の都合の良い保育をするようなっていた”
“自分の保育の限界を感じた”
になります。
他にも、夢である海外の保育園で働いてみたい、家族との今しかない時間を大切にしたい、もう一度勉強したい、などがあります。そして退職してからは、通信制大学に通う、海外の保育に触れる、など様々な学びの機会をもらいました。
今は、大人の物差しや評価で子どもをみるのではなく、“子ども”そのものに気づける保育者になりたい、と考え、自然の中に身を置き、そして四季とともに生活(生きるための活動)をする猟師の生業に興味を持ち、狩猟の道を歩んでいます。
今、非常勤になって、そして、常に学び続けているということもあって、自分としては正規で働いていた時よりも、子どもを、保育を一歩離れた場所から見ることができていると思っています。正規職の時のような“責任”(行事への取り組み、保護者対応、他機関との連携など)がない状態が続いていることもあってか、保育の中にある“ノロイ”や“ものさし”が薄れていっているのを感じています。
そんな私が出会ったある日の子どもの姿を綴りたいと思います。
・ある日の“自力”を発揮した子どもの姿
A君は進級して年長になりましたが、仲が良かった友達が卒園してしまい、新年度になってどう過ごしたらいいかわからず“退屈”になっていました。退屈になると、つい、棚の上に登ったり、色々なことを試してみたくなり、それは時に大人にとって“困った行動”(困っている行動)になるので止められることが多く、さらに不満足さを募らせ、退屈さが増していってしまう状況でした。
大人が一方的に退屈しのぎ、遊びの提供、刺激を与えることは簡単ですが、そのような場合、その大人がいなくなると、途端に“困った行動”をとってしまいます。最近、私はその大人が提供することに、どこか大人都合、大人の意図が多めに含まれ、大人の描く理想像へ誘導していくことになるのではと、そのような提供保育をやめるようにしていました。そして、“困った行動”があらわれた時には、その子のそばに寄り添い、その子の内面から“面白さ”が沸き立つのを待つために観察するようになりました。(ここでは観ることではなく、その子の他者との関係性、置かれた環境、心持ち、その日の天気や空気感も含めてその子を知ることとしています。)
その時に、園庭の伐採した枝を片付ける“しごと”があったことを思い出しました。私は普段から、子どもをよく知れるように掃除や草むしりなど“しごと”をするようにしていました。子どものかたわらで仕事をしていると、子どもは大人のふるまいに興味を持ち、そのしごとを手伝ってくれます。だから、枝の片付けの仕事を始めたとしても、私にとっても子どもにとっても、違和感のない、いつもの“生活”だったのです。私はこの枝を折る作業がこの子の“自力”を発揮できる機会になるのではないかと考えました。
「〇〇ちゃん、枝を折る“しごと”、手伝ってくれない?」
・“しごと”が与えてくれるもの
この子は、私と同じように軍手をつけて“しごと”を手伝ってくれました。自分の持ち合わせた力を枝にぶつけ、枝をいろいろな方向に曲げ、足で踏みながら、柵に押しつけたりして枝を降りました。枝は一本として同じものはないので、さっきは上手くいったことが、次の枝には通用しないのです。
「面白くない」といってすぐにやめることも想像しました。しかし、この子は1時間ほど集中して“しごと”をしました。ただの枝ですが、ここに、自然のものの子どもを受けとめるおおらかさ、自力を発揮させてくれる雄大さ、既製品ではない“ものさし”“正解”がない探求さがあると感じました。
枝を折るしごとを終えて「一服しようか」と水筒のお茶を飲みました。その素敵な飲みっぷり。充実感を得た顔。
枝の中には素手では折れそうにないものもあったので、その時点で私は(明日はノコギリをやってみようか)と考えていました。そして、「あとの太い枝はノコギリで切らないと」とつぶやきました。その言葉を聞いていたその子は、もうその時の分の充実感は得ていたので、それが“次回”の期待へとなっていました。そこにはこの子となら大丈夫という、その日の互いの充実感と信頼があったからの感じていたので私はつぶやいたのだと思います。
・やってきた“退屈”
さて 翌日。
残りの枝を折るしごとを終えて、いよいよノコギリで切ろうと思った時、職員の欠勤が入りました。なのでほとんどの職員が出勤する10時まで乳幼児で合同で保育をする状況になりました。
私は迷いました。でも、別にその子に「今日はノコギリで枝を切る」と伝えていたわけではないので、やらなくても問題ないと思いました。
しかし、その子は感じとったのです。
欠員状態に入り、大人たちの目線や行動が“全体”を、そして“安全”を優先させた“ふるまい”になったのを。
「 才谷、ノコギリやらないの? 」 と、私に向かって言いました。
私はなんて返事をしようか悩み、返事をしませんでした。そして、考えている顔をしました。
自分に気持ちが向いていないこと、自力を試せる機会がなくなることに気づいたその子は、そのやってくる退屈をしのぐために、また棚に登り始めたのです。
・安全か充実かの葛藤
その子の姿をみて、私の頭に「ノコギリ(しごと)をやろう」と浮かびました。これまでの保育経験からその方が良いと直感的に思ったからです。
しかし、これには葛藤がありました。それは私が非常勤であり、責任者ではないからでした。
その園で正規として、そして責任者として働いていたとはいえ、今は違います。自分の判断を優先することがあってはならないのです。何かあった時に、責任も取れないかもしれないし、他の職員が責任を取らなければならなくなります。
しかし、このまま“安全”を優先する方が、事故が起こるような気がしました。起こらないとしても、子どもを監視し、声かけや静止をするに専念してしまい、それは保育といえない状況になるかもしれません。それも自分の経験からの感覚でした。
とっさに、その状況で1番責任がある中堅の職員に声をかけました。
「 ○○さん、ノコギリやってもいいか?そのほうが全体をみれると思うんだけど。」
相談しているようで、もうこれは“決定”しているかのような質の声かけだったと思います。もうこれは確信に近く、そして思いついたら止まらない私の悪いクセが出ていました。
そのやさしい先生は、子ども、保育、そして私のこともわかってくれて(感じ取ってくれて)、特に返事もなかった(聞かなかった?)まま、私は倉庫にノコギリを取りにいきました。棚の上に登っている子に「ノコギリ取ってくるから。木を切るよ。」と伝えて。
その子は「え?」という顔をしていました。その顔は怖さや、困っている表情ではなく、その子の内側から興味や関心といった感情が溢れ出始める表情でした。
・子どもは自力を発揮できると充実する
園庭のベンチを並べてそこにハナモモの枝を置き、ノコギリをAくんに渡しました。
本物のノコギリです。おもちゃではなく道具です。しごとの道具なので、こちらの言葉やふるまいに宿る真剣さがあります。そして、それは子どもにもちゃんと伝わります。たぶん、Aくんはノコギリを使うのが初めてだったと思います。ノコギリの構え方にはぎこちなさがありましたが、真剣さはその表情や身体の強張りからわかりました。足でしっかりと枝を抑え、危険がないことを確認して切り始めるAくん。そこからいろいろなものを感じ取ったと思います。
思ったよりも切れないこと。ノコギリを早く動かしても切れないこと。危ないこと。そして、自分の力を感じること。
あそびの中での体の使いや力の入れ方、気の張り方などとは違う“自分”に出会うことができるのです。それは人工的に与えられるものではなく、自分で掴み取るような、環境に働きかけるからこそ自分にダイレクトに返ってくる“夢中”と言われるものだと思います。
Aくんはこの作業も「やめたい」と言いませんでした。自力を発揮できる手応えを感じているからでしょう。「やったー!」と人工的な喜びではなく、「うん。できた。」という静かな本物の達成感が表情に表れていました。
Aくんと私のその真剣な空気は周りの人を誘います。「何やってるのー?」と、他の子どもたちもやってきました。そこにはもう2人の“本気”があったので、後から来た子もその熱量を感じ、真剣な表情へと変わっていきます。「しごとしてるの。」
小さい子がくると「あぶないからはなれてて。」と声をかけます。これには自分たちのやっていることの危なさももう知っているからこそ、その声に本質がのっているので伝わります。そして、そう声をかけることは自分たちにも投げかけていることになり、まさに自分をも律していると思いました。
保育中にノコギリを使ってしごとをしているので園庭には緊張感のある空間がありました。けれど、結果的には何事もなく、Aくんを含めた子どもたちは充実してノコギリプしごとロジェクトを終えました。
・もし、“安全”を優先していたら
私が、ノコギリのしごとプロジェクトをせず、監視による安全を優先していたらを想像してみます。
考えるに、そちらの方がケガや事故は起こらない、起こる確率が低かったと思います。なんせ使い慣れていないノコギリですから、ケガはありえます。
体制が薄いので、職員の一人は子どもにつかず、園底の全体を監視するポジションにすると思います。そうすることで、子どもが転んだりしてケガをした時はすぐに助けに行けますし、子どもをじっとみているわけですから、ケンカをしそうになっているところをみたら、予測して止めたり、トラブルが起きないように未然に防ぐこともできます。
そして靴箱の上に登っていたAくん。もしノコギリプロジェクトをせずにしていなかったら、この子にとっては苦しい時間になったのではないかと思います。急に訪れた退屈を解消するため、さらに大人の気をひくことをしたかもしれません。それはたぶん大人にとったら“困る”ことです。しかし、監視状態になった大人は、穏やかに、そして、その子の気持ちをわかった声かけはできなくなっているかもしれません。「(今、体制が厳しいのに)なんでそんなことするの?」と。すると、その子の中に理解してもらえない、自力を発揮できない不快感が高まり、さらに大人にとっての困った行動をとるかもしれません。体制が整うまでそれが繰り返されたとしたら、この子にとっても、そしてその場を一緒に過ごす子どもも大人も、そして保育も不快なものになっていくのではないでしょうか。私はここまでを予想し、“ノコギリプロジェクト”をほぼ強行しました。
・一番伝えたいこと
強行しました。と書いたのは、あとあと振り返ってみた時に、横暴さも感じられたからです。そして、結果的にうまくいっただけ的な側面も含まれていますし、“私”だからできた。(自分がすごいとかではなく経験的に)という要素が含まれているからです。(うーん。綴るのが難しくなってきた)
ただ、正直、こんなケースは保育だけなく、子どもの世界にはたくさんあると思います。話がずれそうですが本題に戻ると、ここで私が一番伝えたいことは、タイトルにもある“保育者の弱体化”ということです。
ここからも言葉を選びながら綴らせていただきます。緊張をしながら綴ります。
昨今、子どもを取り巻く胸が苦しくなるような事故が保育の中でもありました。それらの事故は、保育・教育業界の中でもすぐに共有され、再発防止や安全のための研修や講習が取り組まれるようになりました。
子どもの命は何よりも優先されなければならないことです。子どもだけでなく、子どもと共に過ごす大人もその命や権利が守られるのは、当然のことです。
今のこの情報社会は、あまりにも早く情報が共有され、遠く離れた地で起きた出来事が身近に感じられるようになりました。これは私たちの暮らしに豊さを与えてくれるものですが、気づかずうちに自分たちを息苦しくしているのではないかと感じる時があるのです。
何度もいいますが、命、安全は最優先です。ものすごく言葉を選んでいます。しかし、率直に綴ると、安全を優先しすぎると、子どもも大人もがんじがらめになってしまい、自力を発揮できなくなるのではないかと思うのです。
「他の園でこんな事故があったからうちでも起こらないようにしよう」
本当に文字で綴ると難しいのですが。
気をつけることをは大切です。ただ、他で得た反省や教訓を、自分の園、向き合う子どもたち、保育者、つまり、その園の保育にとってを“考えずに”ルールやマニュアルを当てはめ、それを絶対の正しさとして“安易”に中心においてしまうことを危惧しているのです。急がなければいけないことなのですが、じっくりと考え合い、保育者、そして子どものものに、園のものにすることが重要だと思います。
・子どもをみずに、常識や良識をみる
最近、「常識は思考停止。良識は押し付け。」ということばを聴きました。聴いただけなので、まだ自分の中の言葉として咀嚼できていないところがありますが。
様々な情報が共有できるようになったこの社会。自分もですが、それが正しいと思って鵜呑みにしてしまうことがあります。
ここに、角幡さんと永野さんの対談と私が感じている“保育者の弱体化”をつなげていきたいと思います。
対談のタイトルにもある“人間の弱体化”は、今、生きている人間にあてはまることなのかもしれません。便利になったことで、自分で考えて何かを作り出す能力が落ち、便利になったことで、自力を発揮せず、そして生きている実感を得られにくい。さらに正解以外を望まず、平均化していく。ここでいう弱体化した人間は、のちのち可能性を秘めた子どもと向き合う保育者になります。それはそれで保育者として専門性をもった者の弱体化はありえます。
そして、私の実感としてあるのは、もうすでに今の保育者は、常識や良識に萎縮して弱体化しているのではということです。保育者が子どもをみずに常識や良識をみているということです。
保育の世界でも、情報だけでなく、知見やエビデンス、研究者の学術的な理論を先に持ってきてしまうことで、それ以外のことをやることに恐れて、保育者自身も自力を発揮しなくなってしまっているように感じます。常識や良識に従っていれば自分が苦しむこともない、と。
情報社会は中央集権的になりやすいと本で読んだことがあります。保育の世界も、皆が同じものを目指す、いや、目指さなければならないようになり、皆が同じ人間、平均化されていくのではないでしょうか。
それは時に、はみ出すことを許さなくなります。平均になれないものは追い込まれることになるのではないでしょうか。子どもたちは多様です。それを受け入れない保育、保育者はまさに子どもにとって苦しいものになるでしょう。
・どうすればいいのか?
この問いは難問です。私にもどうすればいいかわかりません。私は、子どもにとっての“最善の保育士者”を目指し続けていて、この問いにたどり着いたばかりです。
以前にもお書きしましたが、子どもにとって最善なのは保育者ではない、と考えることがあります。保育が社会的にも認知されてきたことはとても意義のあることなのですが、社会の中におさまりすぎて様々な制約がつき、それよって、少しずつ少しずつ子どもも保育者も身動きがとれなくなっているのかもしれません。
そして、地域のつながりも弱ってきたなか、子どもが“子どもを発揮できる”場はどこになるのでしょうか? これも、今の私の“Wonder”であり、そのかたわらにいる者のが私の目指す“子どもにとっての最善者”なのかもしれません。私の問いの旅は終わりません。
以上が今回のWonder Journey “保育者の弱体化”でした。この記事を綴っている時には、辺野古沖事件やジャイアンツ阿部監督の辞任がありました。関係ないようでこれらのことは関係があるように感じています。この記事を書くのをものすごく悩みましたが、書き出すことで、この問いの旅をよそ見をせずに歩み続けることができると思い綴りました。
自分の大好きな保育が より善くなることを願って
ここまでのWonder Journey は、まとめて記事にさせていただきます。ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
以上、地図屋でした👋


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本日もご来店ありがとうございました。
毎日が皆様にとって素敵な日になりますように
それでは
Have a nice dream day.🎫✈️

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