
いらっしゃいませ 地図屋でございます。
本日は2025年5月12日(土)道標日記No.506です。 ご来店ありがとうございます。
最近、ジビエに興味を持ち始めた私です。きっかけは、加工社会、デジタル、東出さんのYoutube、保育への問い、などいろいろです。
興味があることができたからでしょうか。デジタルから離れる機会を増やそうとする自分も出てきました。これまでやり続けていたポケモンGOから一旦?距離を置くようにしてみました。日々更新されるイベントに追われている自分、自分の持っているものを注いでいたので、それをちがうことにむけてみようとしています。ただ、相変わらず油断しやすい私なので、のんびり自分を変えていこうと思います。
GW明けは、毎年、何かが大きく変わる時です。2年前はNZに行く機会がつくられ、去年も、、、何かあったと思います😅新年度から1ヶ月が経ち、今年の自分の振る舞い方に“見通し”が持てるようになる時期だからかもしれませんね。皆さまはいかがでしょうか😌
さて
今回の道標日記は
☕️よりみち 【 地図屋のデジタルデトックス その① 】
🗺️My Wonder journey 【 保育の中のウソっぽさ その③ 】
を紹介させていただいております。
私の習慣が、皆さまの夢のお手伝いになれば幸いです。
夢への地図を描くお店 World Map 5 🗺 どうぞ ゆっくりしていってくださいね😌
☕️よりみち 【 地図屋のデジタルデトックス その① 】

☕️今回のよりみちは、デジタルデトックス編です。SNS、Youtube、インターネットなど地図屋さんも大好きなデジタル。そんなデジタル社会の中で、地図屋さんがデジタルとどのように向き合っているのかを綴っていきます。
1、デジタルづけからの解放 まずはお風呂から
以前、私は耳勉強を習慣にしていました。1日の中には何もしていない隙間時間は8時間ほどあるそうです。

学識サロンさんの動画【 超効率 耳勉強 】 著者 上田渉さん
私は一人の時間になるべく耳勉強をするようにしていました。朝食を作っている時。通勤時間。寝る前。そして、お風呂の時間も。
隙間時間と言われる全ての時間で耳勉強をしていました。つまり、隙間時間もデジタルに触れ続けていたのです。つまり、仕事の時間や家族と過ごしている時間もデジタルに触れ続けていたわけです。

これは耳勉強をしているようで、デジタル中毒になっていることに気づきました。
それこそ、耳勉強で『ドーパミン中毒』『仕事中毒』を勉強し、デジタル中毒になっている自分を自覚し、デジタルと適切に関わる、つまり距離を置く時間の必要性を学びました。
だいぶデジタル中毒になっていたので、急に始めることは難しそう。なので、これまでの習慣化のスキルを活用して、少しずつデジタルデトックス時間を作ることに決めました。
その1番最初に始めたことが、お風呂をデジタルデトックスの場にしたことです。
久しぶりにスマホがないお風呂に入った時は、その無音に近い静けさ、お湯の温かさ、一人の“無”のような世界に、これまでに自分を反省しました。大切なものを忘れていたような感覚です。ここで、デジタルから離れることの大切さに気づき始めました。
お風呂のデジタルデトックスを始めてから、3ヶ月以上が経ち、習慣化のルーティンにすることができました。すっかりお風呂はデジタルデットクスの場になりました。
次回は
2、寝る時はスマホではなく本
を綴らせていただきます🪧



“デジタルデトックス”に関する関連記事はコチラ🫱 📝
👂ドーパミン中毒 (デバイスから距離を置く)
👂仕事中毒は幻想だ (デジタルの功罪)
👂満足せず夢に向かって (オフラインの趣味を持つ)
👂最高の体調のつくりかた (新しすぎるものは使わない)
🗺️My Wonder journey 【 保育の中のウソっぽさ その③ 】

こちらは旅する保育者としての私が、日々の保育や学びのなかで生まれた“不思議”“問い”をつづる場にしたいと思い始めました。常に問いとそれを探求する思いを持ち、保育者として成長し続けたいです。
今回は、【 保育の中のウソっぽさ ③ 】です。
保育がわからなくなる
「保育の中のウソっぽさ」の最終章です。
前回、保育は子どもたちを“大人の都合の良い人間に育てる”ためのものと綴らせていただきました。ちょっと乱暴な言葉かもしれませんが。でも、これが私の心の中にある保育への“問い”なのです。
そして、私は今、迷っています。
自分はどんな保育がしたいのだろう?子どもにとっての保育とは?
10年以上保育をしてきましたが、どこか、子どもの思いや言葉を大人の都合の良いように解釈したり、子どもを大人の都合の良い方に誘導するスキルばかりついていったような気がします。
それが保育であり、社会から認められる保育者というのでしょうか。
でも私はその保育に納得をしていないのです。それが保育者なのならば、私は自分の描く保育者には全くなれていません。
けれど、日々、子どもと向き合う中で、「やっと保育者になり始めた」と感じた時がありました。
それは、10年以上保育をしてきて、新しい保育のかたちにチャレンジした時です。
それは子ども同士のトラブルの場面でした。
泣き声が聞こえ、仲介のために間に入ろうか、一瞬、悩んだのですが、その時は体制にも、責任にも、時間の流れにおいても“余裕”があった時だったので、私は見守ることを選びました。子どもがもし私に助けを求めてきたら、間に入ろうと思いました。
その子どもたちは私に目をやることも助けを求めることもありませんでした。そして、私がみていることも知らず、自分たちで折り合いをつけたのです。
この場面を見た時、私は子どもを見守り、信じ切ることができた自分、そしてその子どもの愛おしさを感じ、そこで初めて「これが保育なのだ」という思いが芽生え始めました。私はそこで初めて、“保育者になり始めた”自分を感じました。
それを実感してからというもの、私はその保育を目指すようになりました。それは大人が入らない世界で、子ども同士が大人の考えや理解を超えたものを生み出す世界といったら良いのでしょうか。それとともに、保育者が意図的につくる保育、教え主義、保育者主導の保育を“保育”と感じられなくなっていく自分がいました。
これが私の感じている“ウソっぽい保育”なのです。
私が間違っているかもしれません。そうした方が、子どもたちには幸せかもしれません。でも、もう私は心の底からそのような保育ができなくなってしまいました。これは子どもから教えてもらったことなのかもしれません。
今の私は、保育がわからなくなっています。
そして、これは私のずっと続く問いになることを感じています。
保育とはなんなのでしょう。
私の保育への問いの旅ははじまったばかりです。




本日もご来店ありがとうございました。
毎日が皆様にとって素敵な日になりますように
それでは
Have a nice dream day.🎫✈️
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