
始まりました🗺️My Wonder journeyのコーナーです。
こちらは旅する保育者としての私が、日々の保育や学びのなかで生まれた“不思議”“問い”をつづる場です。常に、問いと探求する思いを持ち、保育者として成長し続けたいと思っております。
今回は 『保育者がいない幸せ』です。なかなかシュールなタイトルですが😌
私の中から生まれたWonderが、保育をより善くするための道標になれば幸いです。
それではまいりましょう🫱 🪧
【 保育者がいない幸せ 】 その1
自分はなぜ保育者になりたかったのか
考えた日がありました。“子どもと遊んでお金がもらえるなら”と思っていたこともありました。私は“保育”に対してものすごく失礼だったと思います。
若い時に保育士資格を取るために大学に行きましたが、「講義に出て、単位をとって卒業すれば資格がもらえる」とぐらいしか思っていなかったので、生半可な気持ちで保育者を目指し、勉強していました。そういう生き方が“普通”だと思っていたのです。
保育士として就職し、働き続けるうちに保育者の“専門性”“重要さ”に気づいていくのです。そして、この保育というものに誇りを持つようになりました。私のような人ばかりではないです。保育者という仕事に強い責任感とその役割を持って保育者になった人はいます。

では、なぜ私のような“保育者”が生まれてしまったのでしょう。もちろん私の“育ち”もあると思いますが、社会的要因も必ずしもないとはいえないのでしょうか。それは、保育士の社会的地位とこの社会構造にあると思います。
保育士の給料は一般職業に比べてかなり安く、そして昔は“保母”と言われていたように、女の人の仕事だと思われていました。私が保育園に通っていた時も先生は女性のみでした。時代とともに、国家資格となり、保育士と呼ばれるようになりましたが、それでも変わりにくい“根強い”ものがあると感じます。
社会的構造の面でいうと、資格を取れば保育士になれ、そして正規職員として就職すれば定年まで働ける、ということです。就職できれば、勉強しなくても、自分を更新しなくても、働き続けられるし、生きていけるということです。これが保育に対して失礼な、私のような保育者が生まれることになったのではないかと考えました。

私は今、通信制大学に通い、改めて幼児教育を学んでいます。これはもっと勉強したいと自分で意を決して入学したことなので、勉強への取り組み方、熱意が以前の大学時代とはちがっていることを自分でも感じています。だからでしょうか、この学びから得られる“責任感”も強く感じている自分がいます。そして、このような熱意や責任感を持って保育者になること、これこそが必要なのだ、とも感じました。この思いを持って保育者にならなかった自分に反省したきっかけにもなったのです。
そして、タイトルに戻るのです。“保育者がいない幸せ”に。もっと保育者の社会的地位と責任が認められ、私のように安易な気持ちで保育者になるものがいなくなり、保育者の社会的役割と責任を承知の上で保育者になる人が増えてほしいと思います。そのためには男女の賃金差、ジェンダーバイアス、定年退職制度、そして文化など、たくさんの課題と向かいあっていかなければなりません。でも、そうなることが、子どもの幸せにつながるのではないでしょうか。
【 保育者がいない幸せ 】 その2
次は別視点からの“保育者がいない幸せ”です。3つに分けてあげるとすると、
1つ目は、親の働き方改善です。
子育て中の親は労働時間が保障されても良いのではないでしょうか。子どもと過ごす時間はその時しかないのです。フルで働き、子育てをすることは大変なことです。子どもは親の労働時間以上に保育時間が長いので、子どもは1日のほとんどを保育園で過ごすことになり、それは子どもにも親にも負担がないとは言い切れないことです。なので、親の労働時間が短くなっても待遇も保障され、親が子どもと関わる時間が増えれば、その分、保育や保育者は必要ないのではないでしょうか。これが1つ目の“保育者のいない幸せ”です。

2つ目は、子どもの過ごしやすい環境です。
地域コミュティの減少、車社会、身近な自然の減少など、子どもが安心して遊んだり、過ごしたりすることが難しくなっています。そして、デジタルメディアの発達や便利さもあり、外界と触れ合う経験も失われています。それは保育の場でも同じであり、外で遊ぶことに慣れていない、外界と関われる身体になっていない子どもが増えてきているように感じます。そして安全意識や責任の高まりにより、保育のなかでものびのびと遊ぶことがだんだん難しくなっているように感じます。
これまで地域環境のなかで育ってきたものがなくなり、それをカバーするのも保育の役割になっているように感じるのです。なので、もっと子どもが過ごしやすい遊びやすい環境になれば(戻れば?)その力を育むための保育者・保育をかける必要がないのではないかと考えます。これが2つ目の“保育者がいない幸せ”です。

3つ目は、保育の中に保育者がいないという幸せです。
これはこの章の1つ目と重なるところがあります。私は、保育には保育者同士の語り合いが必要だと強く感じています。しかし、実際は休憩時間も作業や事務に追われ、その日の子どもの姿や保育の振り返りさえ難しい現状があるのではないでしょうか。私はニュージーランドの保育を勉強したときにノンコンタクトタイムというものを知りました。これは、保育者が子どもと関わらずに事務や作業をすることができる時間です。海外の保育施設を見学したときは、ノンコンタクトタイム以外に、保育者の語りあいや会議も保障され、そこに重きを置かれているように感じました。ここに“保育者がいない幸せ”があります。日本は担任1人に対する責任、業務量が多い割には保育から離れることができない現状があります。翌日の準備さえ勤務外でやっている園もあるのではないでしょうか。そのことが当然になり“麻痺”していることもおかしいのですが。
保育者が余裕を持って、保育について振り返り、最善の準備を経て、次の保育に臨める。そんな、保育の中から保育者が抜けられる“保育者がいない幸せ”が叶うと良いと思います。これは日本の残業することが当然である働き方にも課題があります。

結語と今後
以上が私の感じた“保育者のいない幸せ”です。その幸せにたどり着くには果てしない道のりですし、この“保育者がいないという幸せ”を叶えるために子そ、“今”、保育者はものすごく必要なのです。
自然からどんどん離れ、急がされ、正解を突きつけれ、世の中にとって効率の良い歯車になるために身を置く。子どもたちはそんな状況にいるのではないでしょうか。
ものやお金が指標になっている、それが本当の幸せなのでしょうか。“自分だけ”の世界になっていないでしょうか。そんな今を生きる子どもたちにとって、生の人と人との関わりの場である人である保育、保育者は今こそ必要なのです。デジタルやものから離れ、自然や人とじっくりと関わり、その中で自分や他者を知っていく。そのために、今は保育者が絶対必要ですが、いつか、上記のような良い意味で保育者が必要ではなくなる未来を願っている私です。

今回も私のWonderにお付き合いいただきありがとうございました😌
では また



本日もご来店ありがとうございました。
毎日が皆様にとって素敵な日になりますように
それでは
Have a nice dream day.🎫✈️
コメント