
こちらは旅する保育者としての私が、日々の保育や学びのなかで生まれた“不思議”“問い”をつづる場にしたいと思い始めました。常に問いとそれを探求する思いを持ち、保育者として成長し続けたいです。
今回は、【 保育の中のウソっぽさ 】です。
🗺️My Wonder journey 【 保育の中のウソっぽさ 】
【 ウソっぽいなぁ 】
保育の中のウソっぽさ
これは10年以上保育をしてきた私が感じ始めたことです。「あー、ウソっぽいなぁ」と思うことが時々あるのです。それは保育者の子どもや他の大人への関わりから感じるのです。
保育の中で、というか家庭の中でもあると思いますが、子どもが“大人”にとってやってほしいこと(成果、都合の良い行動)をした時、「うわぁ、○○ちゃんじょうずだねー!」と声をかける時があります。
この言葉が、感情がこもってなく、薄っぺらく感じるのです。

大人の思っている世界、大人の正しい世界に“当てはまる”ことをした時に、このような言葉がかけられるのです。ここに大人の本心はないように感じます。(ほんとうにそう思ってる?)と、へそ曲がりな私は思ってしまうのです。
そこには大人が抱えている、子どもを“社会化”させないといけない、というプレッシャーや責任があるのではないでしょうか。
子どもは純粋で発達途上なので、そのことばをかけられた時、(この行動、結果が大人に喜ばれんるんだ)(じゃあ大人のために引き続きコレをやろう)とするのではないでしょうか。
これは大人のためではないか?でも、将来的には子どもが生き抜くための“すべ?”“社会性?”になるのなら子どものためなのか、、、今の私にはピンときていないところです。
でも反対に、子どもが大人にとって困った行動を取ると、そこにはすごく大人の感情がのっているのですよね。大人にとって理解できないことであったり、誰かに迷惑がかかるようなことであったり、都合の悪いことだったり。そこにはウソではない本物の感情がのっています。悲しいものですが。
子どもが褒められたい時は“ウソ”にふれ、怒られる時には“ほんもの”にふれている。
【 子どもたちの“何”を望んでいるのか? 】
保育所保育指針や幼稚園教委要領には“幼児期の終わりまでに育ってほしい「10の姿」”があります。これは小学校入学までに育みたい資質や能力です。健康な心と体、自立心や協同性、道徳性・規範意識の芽生え、など。
これは小学校との円滑な接続を行うためのものですが、どこか、このような“子ども”を目指すことが良いという、大人の“ものさし”に感じます。
その解説を読めば、子どものために大切にしたいことはわかるのですが、私はまだまだ勉強不足なのと、へそ曲がりなので、子どもを大人のつくった世界で生きていくためのプログラミング(書き込み?植え付け?)し、同じ人間を作ろうとしているように思ってしまうのです。
小学校では、英語やダンス、パソコンを使った学習など、今の時代で生きていくための大人の用意した授業が盛り込まれています。これらを勉強しておかないと世界に遅れをとるかのように、小学校に入った時から“世界”に向けた人間づくりが始まっているのです。
そんな雰囲気を感じるからこそ思うのです。私は、私たちは子どもの“何”を願って保育をしているのだろう、と。
どこかで本当には願ってないのに、子どもを大人の都合の良い人間に育てるために保育者が子どもを誘導する行為が“保育の中のウソっぽさ”を生んでいるのではないでしょうか。
【 保育がわからなくなる 】
さて、最終章です。
上記では、保育は子どもたちを“大人の都合の良い人間に育てる”ためのものと綴らせていただきました。ちょっと乱暴な言葉かもしれませんが。でも、これが私の心の中にある保育への“問い”なのです。
そして、私は今、迷っています。
自分はどんな保育がしたいのだろう?子どもにとっての保育とは?
10年以上保育をしてきましたが、どこか、子どもの思いや言葉を大人の都合の良いように解釈したり、子どもを大人の都合の良い方に誘導するスキルばかりついていったような気がします。
それが保育であり、社会から認められる保育者というのでしょうか。
でも私はその保育に納得をしていないのです。それが保育者なのならば、私は自分の描く保育者には全くなれていません。
けれど、日々、子どもと向き合う中で、「やっと保育者になり始めた」と感じた時がありました。
それは、10年以上保育をしてきて、新しい保育のかたちにチャレンジした時です。
それは子ども同士のトラブルの場面でした。
泣き声が聞こえ、仲介のために間に入ろうか、一瞬、悩んだのですが、その時は体制においても、責任においても、時間の流れにおいても“余裕”があった時だったので、私は見守ることを選びました。子どもがもし私に助けを求めてきたら、間に入ろうと思いました。
その子どもたちは私に目をやることも助けを求めることもありませんでした。そして、私がみていることも知らず、自分たちで折り合いをつけたのです。
この場面を見た時、私は子どもを見守り、信じ切ることができた自分、そしてその子どもの愛おしさを感じ、そこで初めて「これが保育なのでは」という思いが芽生え始めました。私はそこで初めて、“保育者になり始めた”自分を感じました。

それを実感してからというもの、私はその保育を目指すようになりました。それは大人が入らない世界で、子ども同士が大人の考えや理解を超えたものを生み出す世界といったら良いのでしょうか。それとともに、保育者が意図的につくる保育、教え主義、保育者主導の保育を“保育”と感じられなくなっていく自分がいました。
これが私の感じている“ウソっぽい保育”なのです。
私が間違っているかもしれません。そもそも正解や間違いで考えるものではありませんが、そうした方が、子どもたちには将来的には幸せかもしれません。でも、もう私は心の底からそのような保育ができなくなってしまいました。これは子どもから教えてもらったことなのかもしれません。
今の私は、保育がわからなくなっています。
そして、このことは、私のずっと続く問いになることを感じています。
保育とはなんなのでしょう。
私の保育の旅は、はじまったばかりです。


もうすぐ第64回全国保育問題研究集会 石川集会!
保育者・研究者の方々との再会が楽しみ!



本日もご来店ありがとうございました。
毎日が皆様にとって素敵な日になりますように
それでは
Have a nice dream day.🎫✈️
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